どんな研究分野にも、その分野の『常識』や『伝統』があります。教科書に載っているようなことや権威ある学会で認められたことを覆したり、何年も何十年も繰り返してきたやり方を改めたりするには時間もかかり、時には思わぬところから反発にあったりします。

とは言え、著名な研究者も時に間違いを犯します。何となく「これで正しいのだろう」と信じられたまま、検証されないで時間だけが過ぎてしまうことも珍しくはありません。2017年度第1回基礎研究グラントの採択を受けた土肥聡(どひ・さとし)さんが今からおよそ10年前に出会ったのも、しっかりとした検証がされないままに教科書に載ってしまった『古い常識』の1つでした。

心肺停止に陥った患者さんへの応急処置として行われる胸骨圧迫(心臓マッサージ)は、血液の循環を維持し、救命の可能性を高める重要な処置です。患者さんを仰向けに寝かせて胸を圧迫する医療従事者の方の姿を、医療ドラマなどでご覧になった方も多いことでしょう。

しかし、もしその患者さんが妊娠していた場合には、普通の患者さんと同じように胸を圧迫しても、うまく助けることは出来ないかもしれません。仰向けに寝かせると、下半身から心臓へ戻る血管の上に赤ちゃんの入った大きな子宮が乗って、血管をつぶして血の流れを悪くする可能性があるからです。

この問題に対して土肥さんが教科書で見つけた「常識的」な解決法は、患者さんを左半身が下になるように斜めに寝かせて、胸骨圧迫を行うという方法でした。しかし、実際にその方法で胸を圧迫してみようとしても、不安定な角度のためにうまく力が掛けられず、十分な胸骨圧迫ができないことに気がつきます。本当にこの方法で正しいのか? もっといい方法はないのか? 教科書を書き換える、長い挑戦の始まりでした。

この記事を読むうえで:

通常の成人の場合の胸骨圧迫のやり方は、まず、患者さんを硬い床や地面の上に仰向け(仰臥位)に寝かせ、救命に当たる人は患者さんの胸のすぐ横にひざまずきます。救命者は自分の片方の手のひらを患者さんの胸の中央よりやや下に当て、もう片方の手をその上に重ねます。腕を曲げないよう注意しながら、真下に向かっておよそ5センチの深さで押し込んだ後、力を抜いて患者の胸を元の位置まで膨らませます。押し込みから力を抜くまでを1回として、1分間に100~120回のスピードで繰り返します。

蘇生の為に重要なのは、心臓が停止してから胸骨の圧迫を開始するまでの時間を出来る限り短くすることと、心拍の再開が確認されるまで中断せずに続けること、そしてなるべく正確な位置をしっかりと押すことです。

胸骨の圧迫によって心臓を出た血液は、動脈を通って全身に行きわたり、静脈を通ってまた心臓に戻ってきます。本来ならば心臓が行っているポンプの役割を救助者の手が代行することで血液の循環を維持して、特に脳の生存に不可欠な酸素を供給(※1)することが胸骨圧迫の目的です。

患者さんが妊娠している場合、仰向けに寝かせてしまうと、患者さんの下半身から心臓へ血液を戻す静脈に赤ちゃんのいる子宮が乗って、血流を邪魔してしまいます。血液が戻って来なければ、いくら胸骨を圧迫しても循環を維持することはできません。血流を確保するためには、何らかの方法で静脈の上から子宮を退ける必要があります。

この記事では、主に2000年代半ばまで多く採用されてきた「患者さんを仰向けにせず、左半身を下にして斜めに寝かせる方法(左側臥位)」と、土肥さんが有効性を確認しようとされている「患者さんは仰向けのまま、体の外から人の手で子宮を左側にずらす方法(仰臥位・用手的子宮左方移動)」について紹介と比較を行っています。

※1:訓練を受けた人であれば、胸骨圧迫30回に対しておよそ2回の人工呼吸を行うことで血液中の酸素濃度が上がって救命効果が高まりますが、人工呼吸は胸骨圧迫より難しいこと、人工呼吸を行うことによるプラスの効果より、人工呼吸のために胸骨圧迫が中断されるマイナスの方が大きい場合も多いことから、一般の方には推奨されていません。

参考:日本救急医学会『市民のための心肺蘇生』
http://aed.jaam.jp/

教科書に間違いが? 側臥位で行う胸骨圧迫に抱いた疑問

土肥さんは現在、昭和大学横浜市北部病院で産婦人科医として勤務されています。しかし初期研修修了後、最初に選んだご専門は産婦人科ではなく救急でした。交通事故などによる怪我も病気もあらゆる症状の患者さんが搬送されてくる救急は、どんな部位や症状にも対応できなければならない、謂わば医療のジェネラリスト。そう信じて選んだはずが、暫くするとある疑問が浮かんできたと土肥さんは言います。

土肥さん「何でも診られなければいけないはずなのに、産婦人科だけが敬遠されていました。妊婦さんを診ることが怖くて、すぐに産婦人科の先生を呼んでしまっていたんです。これでは本当の意味でジェネラリストとは言えないのではないかと思いました」

産婦人科にも元々興味があり、専門を選ぶ時点でも救急か産婦人科か迷ったという土肥さんは、産婦人科で暫く経験を積み、その後で救急に戻って、産婦人科も診ることのできる救急医になろうと考えるようになります。移った産婦人科で出会ったのが、妊娠中のお母さんへの心肺蘇生の問題でした。

「救急でお世話になった病院を辞め、大学の産婦人科に移って取り組んだのが、アメリカ家庭医学会(AAFP)が認可した周産期救急のための教育コースALSO(Advanced Life Support in Obstetrics)の日本への導入でした。2007年に上司2人とアメリカへ行き、1週間ほど滞在して現地の産婦人科医が受講する同じコースを受け、指導者になるための資格も取りました。そして、アメリカでは希望者のみが学べばよかった妊婦蘇生を、日本では全ての受講者が学ぶようなカリキュラムを導入しました」

救急で働いていた頃とは違い、産婦人科の先生たちは救命処置の経験があまりない人も多かったため、日本語版の教科書にはごく基礎的なところから書こうとしていた土肥さんと翻訳チームでしたが、参考にした英語版の教科書には「妊婦の場合は体を斜め(側臥位)にすること」とあり、日本語版にもそう載せました。しかし実際にやろうとすると、斜めの体に真っ直ぐに力を掛けることは難しく、なかなか巧く行きません。

「自分でもやってみましたし、周りの先生たちにもやってもらいましたが、皆できませんでした。それでも暫くの間は教科書通り教えていましたが、違和感が消えず、もしかするとこの方法が間違っているのではないかと考えるようになりました」

側臥位での胸骨圧迫には効果がないのではないか。そんな疑問を抱きながらも、それを検証する方法は暫く浮かびませんでした。妊婦さんに心肺蘇生が必要になる事例は国内では2~3万人に1人とかなり少ないうえ、本物の人間の体で実験することは倫理的に許されません。

最初に試した検証は、心肺蘇生訓練用のマネキンを使う方法でした。このマネキンにはどれくらい正確に胸骨圧迫が出来たかを数値的に評価する機能がついており、仰臥位でも側臥位でも、好きな姿勢で寝かせることができました。ご自分を含めた20人の心肺蘇生インストラクターに協力してもらい、仰臥位・側臥位それぞれで胸骨圧迫を行ってその点数を比較しました。

「2分間、約120回の胸骨圧迫を何度か繰り返してもらいました。どちらの姿勢を取らせるかは、乱数表で決めました。その結果、側臥位のマネキンでは十分な深さまで圧迫できていないこと、圧迫する位置も不正確になりがちなことが分かりました」

特に圧迫の深さについての比較では、側臥位のマネキンを十分深く圧迫できた回数は、仰臥位の時の半分にも満たないことが分かりました。心肺蘇生の専門家であるインストラクターでこうなのですから、胸骨圧迫に不慣れな産婦人科医ではもっと苦労することになるのは想像に難くありません。

これだけでも論文投稿に値する成果だったのですが、「側臥位にしない代わりにどうすれば静脈を圧迫している子宮が退いてくれるのか?」という元々の問題にはまだ答えることができていません。そうこうしているうちに、比較的インパクトファクター(その雑誌に掲載された論文が、どの程度の研究者に引用されているかを示す平均値。この値が高いほど、影響力の高い雑誌、レベルの高い雑誌であると考えられている)の高い雑誌に、韓国のグループが酷似した研究を先に投稿してしまいました。

「あの時は悔しかったですね。自分たちの方が洗練された研究内容だという自負もありましたし、彼らの実験では仰臥位でも側臥位でも大きな影響はなかったと言っていて、そんな筈がないじゃないか、と」

ブタがもたらしたブレイクスルー、生きた体で実験できた!

土肥さんの当時の悩みの1つは、研究の対象がマネキンであり、実際の生き物ではないことでした。マネキンでは胸を正確に押せたかどうかの客観的評価ができても、その圧迫で実際に血流が回復したかは分かりません。一方、実験に使われることの多いマウスやウサギのような動物では、体が小さすぎて人間に対する胸骨圧迫を再現することができません。何かいい方法はないのか……考え込んでいた土肥さんは、思ってもみなかったところで光明に出会うことになります。

土肥さん「2012年に神戸のある研究施設の方から、腹腔鏡手術のデバイスをブタのお腹を使って試してみませんか、ブタと人間のお腹の中はそっくりですよ、という話を聞きました。もしかしたら使えるんじゃないかと考えて相談に行き、協力してもらえることになりました。ブタで実験するための、倫理委員会の許可も取れました」

こうして開発されたのが、メスブタのお腹にヒトの胎児のマネキンを入れた「ブタ妊婦モデル」でした。ブタは麻酔薬などで眠った状態にされ、胎児マネキンは人間の妊娠の状態を再現できるよう、下半身から心臓へ戻る太い静脈の真上に設置されました。ブタは非常に高価なため、それほどたくさん購入することは出来ませんでしたが、それでも4体の妊婦モデルを用意することができました。

ブタ妊婦モデルを使用した胸骨圧迫実験(右奥が土肥さん、ご本人提供)

それぞれのブタを仰臥位または左右どちらかを下にした側臥位で寝かせ、仰臥位の時には子宮による静脈の圧迫を防ぐため、体の外から胎児マネキンを左に動かす「子宮左方移動」を行って、それぞれについて胸骨圧迫を行って成果を比較しました。実験を繰り返すたびに乱数表を使ってブタの姿勢を選び、姿勢を変える順番が実験の結果に影響しないよう気を配りました。

2分間の胸骨圧迫を行いながら、心臓を取り巻く冠動脈と呼ばれる血管の血圧を測定したところ、最も成績が良かったのは仰臥位に加えて子宮を左に移動させた場合で、逆に最も成績が悪かったのは体の右側を下にして側臥位にした場合でした。仰臥位と左側臥位では、それほど大きな違いは見られませんでした。

第2の壁、論文投稿――専門家が足りず査読できない……?!

こうして有用なデータを手にした土肥さんですが、結果を論文としてまとめ、出版するまでの過程で再び壁にぶつかります。

研究の成果を他の研究者に向けて発表するには普通、論文を書き、雑誌を選んで投稿します。投稿すれば載せて貰えるわけではなく、まず初めに雑誌の編集者が、次にその雑誌が選んだ何人かの専門家がその論文が雑誌に相応しいものか、多くの人に読んでもらうべき価値のあるものかどうかを審査します。同じ分野の専門家に論文を評価してもらうことを査読と言いますが、土肥さんの論文は、産科学と蘇生学という2つの異なる分野を理解できなければ審査できない論文だったため、査読してくれる専門家がなかなか見つからなかったのです。

土肥さん「蘇生学の人も産科学の人も、話の一部しか分からないので評価ができず、査読者が見つからないから論文を取り下げて欲しい、と言われたこともありました。論文よりも簡単な査読で済ませられるレターなら載せてもいいと言ってくれたところもありました。また、査読者を12人用意してくれたうち、半分の方から『自分には評価できない』という回答があった雑誌もありました。そんな中、European Journal of Obstetrics & Gynecologyという雑誌が受け付けてくれました」

書き上げてから実に3年近くが過ぎた2017年、土肥さんの論文はようやく受理されました。

心臓は救えた、次は? 脳蘇生の為の新たな挑戦

論文は無事に出版されて初めて成果と呼べるようになるため、実験は成功したにも関わらず、データを得てから出版までの3年間、この研究については成果がないことになってしまっていたという土肥さん。科研費をはじめとする研究助成では、これまでの研究成果を元に評価されることが多いため、資金の確保にはご苦労をされてきました。

土肥さん「実験自体は終わっているので、論文を出版して次の実験をやりたい、という気持ちになっていたのですが、その為の資金がありませんでした」

ブタ妊婦モデルを開発したときも、実験費用の一部を自腹で払っていたほどで、当然、そんなやり方は長くは続きません。基礎研究グラントへの申請を思い立たれたのも、そんなご事情からだったと言います。

「これまでの実験で、側臥位より仰臥位の方が胸骨圧迫しやすいこと、仰臥位でも手で子宮を左にずらしてやれば、冠動脈の血流を維持して心臓を救えることは分かりました。次の目標は、脳が救えるかどうかを確認することです」

実は前回のブタ妊婦モデルの実験でも、土肥さんのチームは4頭のブタのうちの1頭を薬で心停止状態にして、仰臥位、側臥位、子宮移動のそれぞれの場合で脳に届く血液の酸素濃度を測定していました。その結果、仰臥位+子宮移動を行った場合の酸素濃度が有意に高く、側臥位の場合には体の右側、左側どちらを下にして行っても、酸素濃度はほとんど上がりませんでした。

とは言え、今あるデータはたった1例だけで、何度やっても同じ結果になるとはまだ言い切れません。今回の研究費でもう2頭分の妊婦モデルが作れるため、データが増えて信頼性も上がる筈だと土肥さんは期待されています。

「アメリカ心臓協会、AHA(American Heart Association)が出しているガイドラインには、以前は側臥位でのやり方が載っていましたが、いつの間にかそれが消え、子宮を手で動かす方法が紹介されるようになりました。ただ特に効果がある方法として勧められている訳ではなく、『この方法が良いと言っている専門家がいる』と書かれているだけです。今回の追加実験で良い結果が出たら、また是非論文にして、ガイドラインを書き換えてくれ! とAHAに殴り込みに行きたいですね。ヨーロッパの教科書には今も側臥位が載っているので、こちらも削除して欲しいです」

戦いは熱く、研究は堅実に

今は医師として活躍されている土肥さんですが、実はご実家は歯科医院。土肥さん自身の子どもの頃の夢も歯医者さんだったそうです。それが変わったのは、小学生時代にお祖母様を亡くされた時。

土肥さん「亡くなる前に、譫妄状態(幻覚が見えたり、うわごとを言ったりする意識障害)になったんです。元々賢い人でしたし、お祖母ちゃん子でもあったので、様子が変わったことが怖くて逃げるようになってしまいました。亡くなった後でとても恥ずかしい、後悔の気持ちがあって、譫妄になった原因をちゃんと知っていたら怖がらずに済んだのではないかと考えるようになりました」

そして中学生になったとき、職業選択カウンセラーとして学校にいらしていた心理士さんに将来について相談、医師になって精神科か神経内科を選べば良いと教わったことがきっかけで、医師を目指すようになったそうです。

「大学を出て最初の2年は、初期臨床の研修医として色々な科に行きました。そこで惹かれたのが救急と産婦人科で、救急を選んだのですが、そのおかげで心肺蘇生のインストラクターになるための基礎を学べましたし、救急の経験がなければ妊婦蘇生という今の課題にも気づけなかったと思うので、救急に行って良かったと思います」

土肥さんは現在、産婦人科医として勤務や研究を続けられながら、産婦人科医や救急医などが協力し、国内の妊産婦の死亡を一層減らしていくことを目指す日本母体救命システム普及協議会(J-CIMELS)で蘇生のインストラクターを務め、子宮を左にずらして行う胸骨圧迫のやり方も指導されています。J-CIMELSが主導して日本では初となる母体救命のコースもでき、産科医と救急医の間の距離も少しずつ縮まってきました。

「今までやってきたことが、最近になって線で繋がって来たような気がしています。日本で初めてALSOを導入してから所属も変わり、今はALSO自体には関わっていませんが、妊婦さんの死亡を少しでも減らしたいという気持ちに変わりはありません。教科書やガイドラインを鵜呑みにせず、おかしいことはおかしいと言い続けたい。『マネキンではない、目の前に倒れている人が自分の大切な人や身内だったら、どう行動すべきか?』という気持ちで、これからも妊婦蘇生の研究に本気で取り組んで行きたいです」

論文は学位や昇格の手段ではなく、世の中を変える為のツールだと語る土肥さん。側臥位で行う胸骨圧迫に最初に疑問を持ってから論文が出版されるまで実に10年が掛かりましたが、実際に少しずつ、現場は変わってきています。AHAなどの権威ある機関のガイドラインが修正され、正しい方法とその正しさを証明するデータが世界に広まるのも遠い話ではないだろう、お話を伺いながらそんな確信を持ちました。